答.「セオリー通りを良しとする集団」なら、きっと褒められるだろうね。
でも「成長の為に傷付け合う集団」では起こりうる通過点みたいだよ!
☆★☆ピックアップフレーズ☆★☆
かかなすえをしゆくはなんや
果かな末をしゆくは難や
失敗しない事だけでなく、それプラス自分らしくやる事は難しい。という意味。
「間違えなければ完璧」ではない。初心のワクワクを取り戻せてこそ達成といえる。
14-42(356)
孔子さんが、衞(えい:国名)にて、磬(けい)という打楽器を演奏していた。
慣れない楽器だったのか、癖やら先入観やらがお荷物となったり、
楽器特有の躓き所に引っかかったりして、うまく演奏できていなかった。
それを聞いていた、孔子さんのいる家の門番がいった。
〔門番〕
心があるとしか言いようがない磬の打ち方だよ。
孔子さんが過つ事なくうまく演奏出来るようになった時、門番がいった。
〔門番〕
素朴で単調としか言いようがなく、振り子のようにポンポン方針が揺れ動いているよ。
自分自身が外部の情報に侵食されているような、そんな事を匂わす断片があるだけ、
本当にそれだけだ。
詩に、
河の水が深ければ水の圧力に負けず渡り、川の水が浅ければ服を掲げて渡る、
という旨の句がある。
勇敢さと知的さをほのめかしているが、これらは良くないケースとされている。
そもそも、川を渡るなら水位の最も低い時期を選ぶのが賢い選択である。
むしろ、この詩では冬だが、ある特定の時期になら川をリスクゼロで渡れるからこそ、
「この川は渡れる川だ」という概念が生まれているはずであり、
それ以外の時期に川を渡るのは、既存の概念にとらわれているわけであり、
状況に応じているように見えても、その強引さゆえに賢い選択ができたとはいえない。
その詩の旨と同じように、この演奏も、
何故演奏するかの根本をないがしろにした上で、とりあえず演奏を続けていて、
演奏をするからには、時に勇敢に、時に知的に、方針をポンポン切り替えて、
ただダラダラと演奏をするよりはマシな演奏法を選択しているに過ぎない。
要するに、この演奏は良くない演奏だ。
〔孔子〕
彼はよく言い得ている。
始めたばかりの頃は、演奏がままならなかったが、心はこもっていた。
少し慣れてきた今は、演奏はそれなりの形になったが、心は伴えなくなった。
練習の成果の最終形態は、演奏もしっかりとしつつ、心がちゃんと伴う事。
そこへ行きつくのが難しいのだ。
≪状況の推測≫
他者の演奏をきいてまだまだだという者の、演奏の心なさがわかる事に感心中。
論ジェルポイント
流石孔子さん家の門番だね。普通なら「やっと聞くに堪える演奏になった」って安堵する所なんだろうにね。
既にあるものに沿って腕を磨くと心が置いてけぼりを喰らう。けど、先はあるってのがこの章の希望だね。
白文
子撃磬於衞
有荷蕢而過
孔氏之門者曰
有心哉撃磬乎
既而曰
鄙哉硜硜乎
莫己知也斯已而已矣
深則厲
淺則掲
子曰
果哉末之難矣
書き下し文
子、衞(えい:国名)において磬を撃つ
有るは荷蕢、そして過つ
孔氏のしゆく門の者が曰く
有るは心かな撃する磬よ
既して、そして曰く
鄙かな硜硜よ
莫己知なる斯き已、そして已や
深、すなわち厲
淺、すなわち掲
子曰く
果かな末をしゆくは難や