論語エンジェルの【誰でも君子になれる論語の現代語訳】

論語の原文を、何のひねりもなく素直に読んで、現代語に翻訳するよ!

問.自滅っていうけど、そんな人格崩壊した人なんて見た事ないよ?

答.いっぱいいるよ! むしろ自滅者が多数派っていうレベルかも?
  「童心を忘れた普通の大人」ってやつが、避けるべき自滅なのさ!

☆★☆ピックアップフレーズ☆★☆

ふし、じゅんじゅんのぜん
夫子、循循の然

一般的な成人は、自己防衛を最優先にするのがデフォルト。という意味。

このような知的好奇心の欠如は、外圧に負けて自分を自分で消滅させた結果に起こる。

9-10(217)

とある人は、
喪に服している人や、反対にバッチリ礼服で決めている人や、
もしくは、目が見えない人に付き添っている人を見ると、
「なんて事はない普段通りだ」と平常心を保ちながらも、少しぎこちなくなる。

そしてぎこちなくなった事を過ったと感じて、小走りで必ず走り去る。

 

〔顏淵〕

溜め息をつくような事態で、ドライになっていられないから喋る。

 

たとえば、とても大きな壁があったとして、それを仰ぎ見たとする。

端から端までずっと高く、向こう側が見えないほどであったのなら、
「向こう側が見えるなら問題ない」として、壁に穴をあけようとする。

しかし、壁が堅くて穴をあけられなかったのなら、
「ここは向こう側が見えない場所なんだ」と、レッテルを張った上で腑に落とす。

 

いきなり穴をあけようとするのは、
自分の「向こう側が見えない」というフラストレーションには気付いていても、
壁の存在やそこにある理由などの事は、全く気に留めていないからである。

穴があけられないならすんなり受け入れるのは、
彼のような人は、自己防衛を最優先にするようにできているからである。

「見えない時もある」という暗黙の了解を作った方が、そうなった理由を探るより、
低コストで「向こう側が見えない」という苦しみから解放されるのだ。

 

これは、特別な事情のある人たちを見た時の反応も同じ事だ。

相手には特別な事情があるのに、自分は普段通りを強行しようとして、
しかし当然普段通りにはいかないので、居心地が悪くなり、
そして普段通りができる場所へと逃げだすのだ。相手の事情は無関心なままに。

 

「善い事をしよう。善い事とはこういう事だよ」
と、他者に誘いかける人は、多くの知識を広く集めた人だ。

その人の感性的な内なる情動がもちいているのは、
自分の外にあった無限の多様性を、簡素化してわかりやすくしたものだ。

そういったものを自分の情動だと思い込んでしまったからには、
他者に対しても、自分と同じように「善い事」を望んでいる印として、
きちんと身体を使って表現する事を、求めゆくようになる。

つまるところ、「どんな人とも普段通りに接する」という「善い事」は、
実体験では結局普段通りに接せられないものなのだから、役に立たない。

それどころか、「善い事」をきちんと遂行できなかったせいで無駄に罪悪感が出て、
壁の例のように原因を見据える事ができないまま、自信が喪失していってしまう。

 

この、上書きされた情動をやめる事はできない。

何故なら、もとからあった内なる感性は、既に叩き潰されているからだ。

 

自分の理知性の功績は、例えるなら、その者の地位や立場によっている。

功績が有るからといって、良く出来た人間というわけではない。

なので、世間的にはそんな抜きん出た功労者といえども、
取るに足らない小さな事柄に由来したようなもののみに、自ら望んで従っている。

 

≪状況の推測≫
ちょっと失礼な事をした者を見て、失礼な事をする原因と、それが不可逆的である事を語り中。

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孔子さんお気に入りの顔淵(回)さんが曰くしておるよ~! ちょっと難解すぎて論ジェルの手に負えない。
こういう長文を見ると、孔子さんの文章は、よくまとまっていて読みやすくできているものだなと思う。

白文

夫子見

齊衰者 冕衣裳者 與瞽者

見之雖少必作 過之必趨

 

顏淵 喟然歎曰

仰之

彌高鑽之 彌堅瞻之

在前 忽焉

在後 夫子循循然

 

善誘人博

我以文約

我以禮欲

不能旣竭

 

吾才如有所立

卓爾雖欲從之末由也已

書き下し文

夫子の見

齊衰の者 冕衣裳の者 與むは瞽の者

見ゆくといえども少し必ず作る 過ちゆきて必ず趨する

 

顏淵、喟然歎いて曰く

仰ぎゆく

彌の高は鑽をしゆく 彌の堅は瞻をしゆく

在るは前 忽の焉

在るは後 夫子、循循の然

 

善を誘う人は博

我は文を約するをもってする

我は禮を欲するをもってする

罷して能うにあらず既に竭する

 

吾れの才の如くは、立つ所に有り

卓する爾といえども欲して從いゆくは末の由なるのみ